ラナイ島に行ってきました
その報告を書きたいところだけど、何となく今日は思い浮かんだことを書く。
周波数のことについて。
これからの地球について。
自分の意識の変容について。
なんて、目次を並べてみても、全然違うことを書いてしまうかもしれない。
私の旅はいつでも普通の旅ではない。
導かれてどこかに行き、高次元の存在が降りてきて、エネルギー的にメンバーを見ては、どこに行って何をしよう、このブロックをこう外そう、と言われる。
そしてエネルギーの変容がある。
単なる旅では決してあり得ないレベルの変容。
すると私の場合、旅の途中、あるいは帰ってきてすぐに夢を見る。
ブロックが外れる夢。
その夢は特徴的だから、ただわかる。
今回の短いラナイ島の旅でも、もうハッキリとした夢を何回か見た。
罪悪感を感じる夢、ただ残酷な夢、人から信頼されずボイコットされて嫌な感じになる夢、、、
中でも、久しぶりに見たこの夢。
私のパターン中のパターンでもある、突然子供を失う夢。
「信じられない!まさか!許せない!ひどい!私がちゃんと手元に置いておけば、、」と憤りと悲しみで目が覚めた。
これは、過去世の記憶の巻き戻し。
ドンズバの過去世でなくても、似たような体験を何回かしていて、それによって深い悲しみと人への不信感、そして自分への罪悪感と懺悔の気持ち、幸せを自分に許可できないというパターンを持っている。
びっくりしたのが、もうこんな自分を幸せにしない潜在意識、とっくの昔に手放し切ったと思っていたのに、また出てきたこと。
13年前から、掘って、掘って、掘って、捨てて、、ってやってきたのに、まだあるんだ!と驚いた。
なぜかというと、最近ではこれ系の夢はあまり見なくなって、もっと違うタイプのブロックの夢を見る方が多くなってたから。
久しぶりにこの夢を見た時、あぁ、本当に潜在意識って地層のようになってて、いろんな意識が積み重なっていて、まだまだいくらでも掘れるんだなあって今さらながら思った。
補足的に。
私の場合は、エネルギーの変容があるとき、いらない潜在意識のブロックが取り外される時のサインとして、それを示唆する夢を見ます。
その夢の内容やタイプによって、どんなブロックが取り外されたのかがわかる。
人はブロックのパターンをおおむね3つないしは4つ5つ程度持っていて、それ以外に細かいパターンが複数、あるいは無数にある。
私の場合の一番大きなパターンは「子供を自分のせいで亡くして強い罪悪感を覚え、決して自分を幸せにしまいと決める」というもの。
つまり、罪悪感。
そして、自分に完全な幸せを許さない。
だから、「こうなって行きたい」と顕在的に思っていても、潜在意識が邪魔してここぞの時にし損ねる。
もちろん、し損ねたことに気づくこともあれば、気づかないことも多々ある。
するとさ、落ちては行かなくても、上がって行かなくて、同じようなところをグルグルと回り続ける。
この潜在意識の中のブロックパターンは、人によっては、「エゴが強すぎる」とか、「自分の真ん中にいない」とか、「恐れから他者に排他的になる」とか、「人にいらぬサポートをしすぎる」とか、、本当にもういろいろです。
しかし、こういうブロックが外れてはたと気付くのは、「この意識があの行動を作っていたのか!」という純粋な驚き。
よくね、皆さん「私の潜在意識が◯◯を怖がってるんです」とか「私の潜在意識がこうやれっていうんです」とか、潜在意識を知っていて操れるような言い方をなさる。
でもね、潜在意識って本当に無意識領域に入ってるから、ぜんぜん気づけないの。
気づけるとしたら、それはすでに潜在意識ではありません。
まあ、潜在意識のかなり上の方に上がってきているものは、ちょっとした瞑想とかでふと気づくみたいにわかる場合もなくはないのですが。
そんなことで、みんな潜在意識が分かったつもりになっていると、それもまた怖い。
だってさ、考えてもみて。
自分が自分を操れるつもりになっていたら、いつまでも堂々巡り。
「あの潜在意識があれを創ってるだろうから、あの行動を変えねば」
とかさ
「なぜ私はあんな行動を取ってしまったんだろう。ああすればよかったのに。バカバカ」
とかさ
「よし、次こそああするぞ」
とかさ、つまり、自分で自分をコントロールし続けるワナにハマる。
つまりさ、見えないところでわからない意識が働いてのあらゆる自分の行動だから、意図的に何かをしようとしても、動かないものは動かない。
すなわちさ、頭で考えてどこかが一旦まともになったとしても、別の部分でし損ねる。
言ってる意味わかりますかね?
つまりさ、100しか入っていない水を、130とか120とかにしたがるわけでしょ、私たちは。
あの人から3もらおうとかさ、いやいやあの人から10もらえるとさか、あるいはめちゃくちゃ努力をして自力で15プラスにしよう、とかさ。
ところが、そうした瞬間、別のところでは3漏れてる。
あるいは、10、15ダダ漏れ。
つまりさ、私たちは常に100でしかないからさ、頑張るとか、得しようとか、人に取り入るとか、頭をひねるとかして、例えば10プラスになっても、別のどこかで気づかないうちにその10はこぼれ落ちていて、いつでも私たちは100に戻ってるんだ。
なーんだ。
やっただけ損だったんだ。
猛反省したって仕方なかった。
だってそれが私だから。
その時の私が100。
100以外の何者でもない。
なんか、そんなことに改めて気付き始めたとき、あぁ、まだ私はぜんぜんわかってなかったんだな、この宇宙の仕組みを、なんて思ったりする。
「今の自分をありのままに認めよう」なんて言葉があるじゃない。
認めなくちゃいけないんだ、認めたくないのに、、って思ってた、どこかで。
認めるべきものなんだ、とか。
そうじゃなかった。
認めないとも、認めなくちゃもなく、それは認めざるを得ないものだった。
認めないとき、あがくとき、私たちはこの広大な宇宙に腕相撲を挑んでいる状態でしかなかった。
勝てっこないのに。
そんなことの気付きも、意識が変容しなければ腹落ちできない。
また一つ、あがく自分を取り去れてよかった。
自己反省、自己否定、自分に向ける「こうあらねばブロック」が取り外せてよかったよ。
ありがとうラナイ島。
ありがとう、高次元の存在。
ありがとう旅の仲間たち。
また、ドラマチックだらけの旅の模様はシェアします。
ではでは、またね