けいこ ヴァールハイト Keiko Wahrheit Official Blog

真実の愛は真実の光の中にしか存在しないということをただ知った受胎告知教会

 

 

カナの婚礼教会について。

 

 

ここに蔓延していたのは、奇跡エネルギー。
だけど、イエスが水がめの中の水をワインに変えたとは、私は本当は思っていない。
イエスが本当に聖書にたくさん書かれている通りの奇跡を起こしたのか、起こしていないのか、私にはわからない。
だけども、1つだけ思うのは、人間はそんなにたくさんの奇跡を人に見せる必要があるのかないのかということ。
だって、ワインが足りなくなったのならば、どこかに買いに行けばいいだけの話だし、なんなら「なくなっちゃいました、すみません」でお茶やミルクや他のお酒を飲めばいい。
なぜ神は、わざわざ面倒だから、あるいは体面が立たないからとか、そういう人間くさい理由だけで水をワインに変えるサポートをするのか、あるいはしないのか。
私の上にいる高次元の存在たちも、おそらく水を瞬時にワインに変えるようなことはできる。
次元が違う場所に存在するということは、そんなの小指の先ほどの労力でできちゃうってことも表す。
だけど彼らはそんなことは基本的にしない。
なぜかというと、宇宙法則的にそれはしてはいけないから。
この間のブログに書いた通り、私が深夜に800曲ある中から、たった一曲を一発で出してもらったように、彼らはそれくらいのことは励ますため、あるいはパフォーマンスのためにしてくれたりもする。
だけどそれは時空を曲げることになるからやらない、普通はと言う。
じゃあ、イエスが3000人に食べさせるだけのパンを瞬時に用意ができたのはなぜか。
また本当なのか。
足の悪い人を「あなたの罪は赦された」と言うだけで歩けるようにしたというのは本当か否か。
きっと、何かはあったのだと思う。
それが尾ひれはひれをつけて大きくなったとき、イエス・キリストを権威者たらしめたい後世の人間たちが、それをもとに誇張して創作した。
そう考える。
結局、奇跡って何かというと、奇跡を信じる力に他ならない。
弟子たちは、イエスが数々の奇跡を行う前からイエスを信じ、ついてきた。
その結果、カナの婚礼教会に始まる数々の奇跡を見せられた。
そして信頼を深くした。
ここで婚礼があったのも本当だし、マリアが困ったのも本当だろうし、イエスが何かのパフォーマンスをしてマリアを助けたのもきっとあったんだろうと思う。
ここには確かに、マリアとイエスとその弟子たちがいたという痕跡があった。

 

 

 

 

イエスが水をワインに変えたときに使ったといわれる水がめ。
もちろん、私はそれらが史実を表す物的証拠のものなのかは正直わからない。
だけども、確かにそこにはユダヤの民や、あるいはイスラエルの民や、アラブの民たち、そんな人間たちの息吹を感じた。
そのあと私たちが向かったのは、受胎告知教会。
ここには、一転、真実の光しかなかった。

 

 

ミサが行われていた礼拝堂。
エネルギーが一定の速度で右に左にと揺れていた。
マリアがガブリエルからイエスを身ごもっていることを告げられた場所。
清らかな井戸の跡地に建てられている。
ここに蔓延するのは、大天使ガブリエルの息吹。
マリアに関する教会ということになっているけど、実際にはここにあるのはガブリエルのエネルギー。
ガブリエルは愛の天使。
その愛は、性愛も含む、恋愛も含む、あらゆる形態の愛を表す。
あらゆる愛は、あらゆる場所に息吹く。
そして私たちは愛の元に生かされている。
そして私たちは、愛の名の下に自由。
そして私たちは、愛も選べる。
本当に愛する人と一緒にいるのか、お為ごかしの愛の元に無理やりいさせられるのか。
そして、無理やりいさせられるのは、自分が愛だと思い込んでいる執着ゆえかもしれない。
あるいは、破滅的な愛、自分を許さないための縛るだけの愛、人をサポートしているつもりで息苦しくさせている愛。
それらも、一つ一つが愛の形。
すべての愛に否定はいらない。
そして、否定すべき物差しを私は持たない。
私たちは、というべきか。
だって、すべては体験でしかないから。
体験はすべて尊い。
いい体験だけが素晴らしいわけでもないし、苦しい体験からしか学べないわけでもない。
私たちは自由意思によって、あらゆる全てが選べる。
だから私は真実の愛だけを選びたい。
それが今朝、私が気づいたこと。
昨晩、ガリラヤ湖畔のエネルギーのとても高い場所から、ナザレのエネルギーを取り込んだ一斉遠隔ヒーリングをさせていただいた。
その中で、たくさんの大天使ガブリエルの息吹を取り込んで、小天使も含むミカエルやラファエルやヨフィエルや、たくさんの天使軍団がサポートに来てくれてもいた。
その中で私が気付かされたのは、やはり愛は偉大だっていうこと。
そして真実の愛は、真実の光の中にしか存在し得ないということ。
私はやはりお為ごかしの愛の中では生きられない、それをただ知りました。
だから私は、真実の伝達者として、また迷うこともたくさんあるけど、まっすぐ進んでいきたいと思います。
それに気づかせてくれた、たくさんの高次元の愛溢れる存在たちに感謝しかありません。
そして、この旅やブログに付き合ってくれているみんなにも。
いつもありがとうございます。
これからバスはヨルダン沿いの道を駆け抜けて死海へと向かいます。
また、書きます。