2019年3月9日

イスラエルの旅3日目、その3。ヨルダン川の洗礼所で感じた怒りと哀しみについての考察

前回の記事の続き。

 

 

バプテスマのヨハネの名前を聞いて涙がこぼれたヨルダン川の洗礼所。

 

 

 

 

そしてそれは私だけではなく、多くの参加者がそうだった。
私たちの旅の一つの目的は、宗教的支配を終わらせること。
もう一つは、私たちは神的存在を愛してやまないはずなのに、片側では疑い、嫌がり、なるべく近寄らないようにしようともしている、
「神嫌いの神好き」
という、この複雑ねじれたどこにもいけない意識を解き放つ、ということ。
そして、この話を書いている私自身が、その張本人でもある。
これだけスピリチュアルな世界がどっぷり大好きで、それ以外の領域で生きていく気もなく、神ごと大好き、そして仕事にまでしてしまっているのに、未だに神の有用性及び、目に見えない世界を疑ってもいる、どこかで。
すると、すべてが中途半端に終わりかねない。
それを危惧した私のガイドたちが、旅の仲間たちや、これを読んでくれている同じような体験をした人たちの意識の解放をテーマに組み敷いたこの旅。
だから私は思う。
やっぱり神的存在はいるし、頼ると心強いし、だけど使い方を間違えないこと。
使い方っていうとちょっと言葉が悪くもあるけど、要するに、サポートをされつつ、私たちも一方的に従うわけじゃなく、ちゃんと私たちの人間意識の元で、精査された考えのもと、従うべきところは従うし、サポートされるべきところは受け入れる。
そして、時にはその注文に従うというパターンもあり。
その注文っていうのは、つまり、ときどき人を小間使いのように扱ってくる神的意識体もいて、そういう存在たちはたいてい次元的にあまり高くないけど、でも時にはサポートこっちがしてあげることもありという話。
それはまた別次元の話になっちゃうので、今度またどこかで書きますね。
話を元に戻します。
この、神と人間意識のバランスが悪すぎると、神的意識体の手先になって人間の人生をすべてダメにするし、あるいは神のサポートも得られず右往左往するだけにもなる。
だから、この、神への怒りと疑いを解き放つ。
その旅のテーマの内容のイニシエーションが、まず一発目、ここで行われたようでした。
何も知らなかったです。
そして、私たちはその後、バスの中で高次元の存在たちからこんな話を降ろさせられた。
長くなったので、次の記事に書きます。
続く。

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