けいこ ヴァールハイト Keiko Wahrheit Official Blog

イスラエルの旅3日目、その4。神への怒りと自分への怒り、そして許せない想いが何を創ってきたのか

バプテスマのヨハネの死に関して、バスの中で高次元の存在から降ろされた言葉。
直接、文字起こしをしてみました。
私が降ろした内容そのままなので、半分は私の言葉として、途中からは高次元の存在たちの言葉になっています。
「今それが、この場所で行われたイエスの洗礼ということを聞いた時に、本当に怒りと悲しみが湧いてきました。

実際には私や皆もその場所にいたかもしれなくて、でもそれは民衆としてそれを見ていたとか、噂を聞きつけた者だったかもしれません。

 

でも、この怒りっていうものは『なぜ神はヨハネを助けなかったか』っていうことに他ならなくって、

 

なぜじゃあ神はそれだけの力があったのに、その直前でヘロデを殺せなかったか、あるいはそれをやめなさいとおさめなかったか。

 

結局神はおためごかしじゃないかと、じゃあ私達は何のために神の伝達者としているのかというその怒りが私達をただ縛り続ける。

 

でも私達がもう一つ解き放たなくてはいけないのは、神を許せなかった怒りを自分に向けているその刃です。

 

私達は神を許すも許さないもなく、ただここに神の名のもとにいる、その時体験だけがすべてだという考え方をあまりしつけられませんでした。

 

ただ神がありきで神のもとに私達が正しき行いをすれば神は護って下さると。

 

だから神にかしずけ、神のために捧げものをせよ、神のために祈りを捧げよ、讃美歌を歌え、そのようにしつけられて、それだけが正しいと教えられてきた時、

 

ではなぜ私達を助けてくれないのか、

 

その問いかけが、未だに時を越えて私達の体の中にただ息づきます。

 

怒りっていうものが、根源的な怒りがどこからきてどこに向かうのかというのは、やはり人間が生きとし生けるその生命を受けた瞬間から神の名のもとに生かされているといったこの流れがあるとしたら、

 

その神を信じられないことは自分の生命を信じられないっていうことだし、自分の人生を信じられないっていうことだし、全否定をしていくっていう、全ての始まりの怒り、この怒りを解き放たないと私達は決して私達を赦せないし、どこにも行けません。

 

なぜかというと、私達は洗礼者ヨハネのようにイエスキリストのように、神にかしずくといった過去世が多くあって、それはそういった生き方しか選べないといった私達の生命形態がある時、私達は自分の人生全部を否定しながら生き続けるということに他ならないから。

 

 

だから私達がここで解き放つ、この旅に旅立たされた。

 

 

私達はいかに日本人として生きて、キリスト教と全く関係ない所に生きているようでも、結論としてその時の記憶っていうものは、世界中を旅して過去世の旅を経て今ここにいる私達の中に、たくさんのカソリックやキリスト教、あるいはキリスト全存在っていうその溜息、体験っていうものは必ず仕組まれています。

 

だから私達が神ごと、あるいはヒーラーとしてスピリチュアルの仕事をしていくにあたって、全く関係のないキリスト教であっても、やはりその怒りっていうものを解き放たないと私達は自由に自分の生命存在を現せないもしないし、喜べもしないし、この仕事を誇れもしない。

 

結局この仕事をしたって汚されるだけだ、結局この仕事をしたって人からどうのこうの言われて怪しい奴だって言われて落とされる。

 

そうするとコソコソ隠れてやるしかないし、あるいは隠れてやりたくない人はしょうがないから誰かに何かを言われるだろうけどしょうがないと諦めながらやります。

 

だけども、正々堂々と渡っていくことができなくもないのは、自分の中に100%の思い込みがあるものは現実化する。

 

自分の信念体系、思いグセ、価値観が現実を創っていくものだから」

 

 

 

前半、後半は多少はしょっています。

 

 

今、私が伝えた言葉を改めて読み返してみると、なるほどなと納得しつつ、また改めて、自分の内側にその悔しさ、哀しみが隠れていたことに驚きもします。

 

 

そして、この体験を経て、私、あるいは私たちは内側に隠されていた、神への怒り、自分への怒り、この仕事をしていくことの躊躇、そんなエネルギーをすべて解き放てたと感じられる。

 

もう私は、だんだん私を許さない、という流れの元に生きれなくもなってきていて、生意気にも周りに口答えをしたり・・・っていう形じゃなく、自分を本当の意味で大事にすることができるようになってきた、その感覚を旅の終わり頃から今も感じています。

 

たとえば、遅刻グセ、変なところで寝るクセ、疲れてもなかなか寝ないでいつまで仕事をしているクセ、あるいは、無気力的に起きてくることをただ漫然と受け入れてもきた自分のあらゆるあり方、また泣きたい時に泣けない、マヌケを演じる、そして自分で自分を落とす言葉遣い。

 

ありとあらゆる、私の「まあいいか」という一言でスルーされてもきた、私の不利益になるすべてのことが、全部自分を許せないその意識から来ていたっていうことに、ただ気付かされた。

 

この仕組みは、また変化変容は本当に大きくって、この先私はどんどんもっと自分を解放していけるだろうとも思っている。

 

なぜなら、私が私を許せない時、許せていないことにすら気づかせない。

 

だけど私は、もう本当の意味で気づいてしまったから。

 

私の「自分を許せない」という意識が、私の大ざっぱで鷹揚で人の良い面、あるいは小さなことにこだわらないという、自分の美徳だと思い込んでいたこの性格を形作ってきたのだということに。

 

だから、潜在意識と顕在意識はいつでも喧嘩をしていくし、パラドックスでしかないということ。

 

改めて、何度でも何度でも、自分の体験を通して気付かされる。

 

この気づきの旅は、やはりやめられないです。

 

長くなったので、この次に訪れたカナンの地であるパレスチナ自治区の中にあるジェリコという遺跡の話は次の記事に書きます。

 

 

ここでの気づきや解放もまた大きかったです。

 

 

長い記事を読んでくださってありがとうございます。