2018年6月26日
現実創造とご先祖供養の関係性 その1 エネルギーは多方向から動かす
さて、今回はクライアント様からのご感想をご紹介方々、現実創造についての話をさらに深めていきたいと思います。
シェアをくださったのはTさんから。
Tさんは、一般的にはとてもエネルギーの周波数の高い方です。
通常であれば、アセンションの時期にはただ舞い上がってしかるべき。
しかし、なぜだかうまくいかない。
なぜなのだろう!?ということで、私のワークショップ、そして遠隔ヒーリングセッション、先祖解除セッションと受けられました。
たくさん、皆さんにお伝えしたいことが書かれているため、ご紹介方々、エネルギー的には何が起きているのかをご説明していきたいと思います。
皆様の知恵知覚のサポートになれば幸いです。
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こんばんわ。Tです。
先日はワークショップおよび先祖解除セッション、ありがとうございました。
〜中略〜
実は、ワークショップ2日目のお昼休みに外に出た時、何もないところで派手に転んで、手と膝を擦り剥き、左足の親指に怪我をし、スマホ画面が割れるという出来事がありました。
手と膝とスマホは、大きなダメージはなかったのですが、左足の親指は、爪が完全に剥がれる手前でかろうじて繋がっている状態でかなり流血して、個人的にはちょっとした惨事でした。。
バイ菌が入ると怖いから病院に行かねば、とWSを早退しようと思ったのですが、薬局で絆創膏を購入しぐるぐる巻きにしたら出血がおさまったので、気を取り直して午後も参加しました。
そして、午後のワークの最後で先祖供養のテーマがでてきて、それは、私がずっと抱えていた問題の核心につながる話で、内容が内容だっただけに、もしかしたら、この話を聞かせないために怪我をさせられたのでは??とちょっと思いました。
だとしたら、ご先祖さま、恐るべしです。
WSでは、私がここ数年ずっと抱えていた大きな課題について、それがどういう仕組みであるのか、私が感じていた「自分で自分の足を引っ張っている感」の原因が何なのか、思ってもみなかった方向から答えが降ってきて、本当にびっくりでした。
パズルのピースが組み合わさっていくように、これまでのさまざまな事象やワードの断片がつながっていくような、不思議で感動的な瞬間でした。
そしてその流れで、先祖解除セッションに参加させていただくことになったのですが、もともと体感があまりなく、これまでの遠隔セッションでも何かを感じたり見えたりはしなかったので、今回も体感に関してはとくに期待せず、とはいえ、やはりリラックスして受けたいな、と思い、開始の13時になると、早々にベッドに横たわりました。
はじまってしばらくはただゴロゴロしていて、そのうちウトウトし始めたのですが、ふと左足の親指の痛みで目が覚めました。
3日前に怪我をした左足の親指は、サージカルテープぐるぐる巻きではあるものの、すでに痛みは引いていたのですが、それが突然ビリビリと激しく痛み出しました。
痛みはしばらく続き、やばい、やっぱりバイ菌が入ったんだ、と不安になりましたが、またいつの間にか寝てしまっていたようで、電話の呼び出し音で目を覚ました時には、ちょうど15時を回っていて、痛みはすっかり引いていました。
なんだったんだろう?うたた寝してたし、気のせいか?とも思いつつ、初の体感らしき感覚にテンションが上がってました。
あと、もうひとつ不思議なことがありまして。
送っていただいた音源を聴いて、身請先(?)が二荒山神社と聞いた時も、ちょっとびっくりでした。
なぜなら、やはりWS2日目の何かのワークで、日光東照宮から二荒山神社へ続く参道が見え、誰もいない静かな参道を二荒山神社へ向かって進んで行くイメージを見ていたからです。
4月のWSでは、素っ頓狂なイメージばかり見て「妄想か?」状態でしたが、今回のWS → 先祖解除セッションへの流れでは、シンクロはあるわ、探していた答えが見つかるわで、本当におどろきの連続でした。
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まだ続くのですが、いったんここで感想と解説をさせていただきますね。
まず「身請け神社」って何ですか?というと、こういう先祖上げをしたり土地のブロック解除をしたりするときに、その場所を守る土地神に応援を頼む。
その応援のことを「身請け」と言っています(いわゆる上用語)。
その身請け先は、いつも直前にならないと決まらない。
たとえば法事ならば、だいぶ前から予定が決まっているだろうし、そこにいく家族の人数や集う人たちの面々もある程度固定されている。
すると、家族の代表者的なその法事を執り行う人の魂の流れの中から、身請け的な神が決まり、これは寺で法要を行うときにも同じです。
なぜなら、私たち大和民族は、実は古来の神参り的な思想は八百万の神信仰そのまま、あちらにもこちらにもいる自然霊やその流れから派出した神的存在に守られながらここに今いるから。
仏教の教えはお釈迦様が悟りを開いた教えを、万人にわかりやすいように紐解き、それを説いていく聖者がいて成り立つ、いわゆる宗教。
しかし、神道の教えは基本的に神対人。
人対人ではないのです。
そんな信仰のさなかにいる我々は、仏教は伝来した偉いお坊さんからもたらされたもの(人為的に作られたもの)という考えもなしに、ただ人が死ねば坊さんが来て、寺で念仏唱えて、仏ごととしてしきたりにのっとってあの世に行ってもらう、と思い込んでいる。
思い込んでいなくても、深く考えない人がほとんどだろう。
だけども、実は人が死んでいわゆるあの世に旅立つとき、実は迎えに来るのは仏様や観音様など、仏教のありがたい教えで名前が上がる存在ではない。
ましてや、ご先祖様でもない。
たまには差し出がましい先祖を家系に持つ場合、頼んでもいないのに先祖が総出で迎えに来ることもあるが、これはどっちかというと特例。
それよりも、仏事をしながらも、実はその土地神(いわゆる氏神様)と産土神が迎えに来る。
そして、アイデンティティを喪失しない前に、その人に聞く。
「もう一度生まれ変わりたいか、生まれ変わりたくないか」。
今さ、私たちは生きてることが辛すぎると、「もう2度と生まれ変わりたくない!」とか言う。
だけど実際は、死んでみるとこの世のことが愛おしくて、寂しくて、「もう一度肉体を持って生まれ変わりたい!」と言うことがほとんど。
、、だと、私の高次元ガイドたちはそのように言っています。
このまま生まれ変わりの話を続けてもいいんだけど、かなり趣旨とずれて来てしまうので、この先の話は今度に譲ることにして、先を急ぎます。
と言いながら、長くなってしまったので次に続きます。
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