2018年12月16日
「自分がどうなっていきたいか」よりも「どうなっていきたくないか」にフォーカスする話
『現実創造』というと少しだけ違うのかもしれませんが、「自分の人生を自分のためだけに生き切る」というトピックスについてお話したいと思います。
ほとんどの人が気づいていないのが、「幸せになりたい」と心から思っていない自分のこと。
誰もが幸せになりたいはずだし、幸せになろうと思って生きていると思い込んでいる。
だけど、誰もほとんどの人が自分のためだけに幸せになろうとは思わない。
「自分のためだけに」とは、自分一人で幸せになろうとは思わないという意味ではなくて、自分のためには生きちゃいけないんだと思い込んでいる。
なぜかというと、そういう教育を私たちはされて育ったから。
子供の頃から親は口を酸っぱくしてこう言ってきたはず。
「誰々ちゃんに優しくしなくちゃダメ」
「おもちゃを独り占めしちゃダメ」
「自分勝手なことをしてはダメ」
「誰々ちゃんと一緒にやりなさい」
などなどなど・・・・・・・。
これが何を創るかというと、すなわち、「人と一緒じゃないとダメ」発想。
私たちは孤独でうらぶれたいわけではないから、基本的には人と協業して生きていきたい。
だけど、そんな私たちは人と一緒じゃないと生きられない発想によって、全方位的な自分の幸せのためだけに生きるという機会を逸してもいく。
なぜかというと、それはやっぱり人に遠慮するからさ。
遠慮するだけじゃなくて、邪魔をしないようにとか、足を引っ張らないようにとか、一緒に手をつないでゴールしましょうだとか・・・。
無意識レベルでこのような生き方が自分の内側に入りすぎちゃっている人が多すぎる。
特に私たち日本人は。
そして、笑いたくもないのに愛想笑いをし、くだらない天気の話題につき合い、目の前の人に話しかけないと悪い気がして特段話したくもないのに話しかけもする。
もちろん、これが悪いわけじゃなくて、人との良好なコミュニケーションを取っていくためには必要な処世術でもあるかもしれない。
だけど、これがもっと規模的に大きなったらどうだろう。
簡単にいえば、仲間より先に家を購入してはいけないとか、結婚相手とラブラブになってはいけないとか、目の前の同僚よりも先に出世してはいけないとか・・・。
私たちの意識はエネルギーだから、エネルギーというのは隅々まで充満する。
どういう意味かというと、大きいとか小さいとか関係なく、あればどこにでも働くということ。
つまりさ、小さなところで働くエネルギーは、必ず大きなところでも働いていて、たとえばチューイングガムが嫌いな人がチューイングガム的なものを人からもらうとする。
そして人に遠慮しながら生きている人は、それが嫌いだと言えずに愛想笑いをしながら「ありがとう」とまで言ったりしながらもらってしまう。
心の中では舌打ちをしている。
「チューイングガム嫌いなんだよ、私は!」って。
するとどういうことが起きるかというと、この小さな場所で働くエネルギーは、もっと大きな場所でも働く。
たとえば、職場で移動命令が下されるとする。
まったく行きたくない部署。
むしろそんな部署に回されるくらいなら、辞めるか死んだほうがマシっていうくらい嫌な部署。
なのにそれが言えなくて、何なら「ありがとうございます」なんて言っちゃったりしながら、その行きたくない部署に回され、嫌だ嫌だと思いながらも仕方がないからと我慢して働く。
この例は極端だと思いますか?
「そんなことないだろう~。ガムは断れなくても、さすがに部署移動で嫌なところの命令が来たら、少しくらいは反抗するとか、嫌すぎるなら辞めるとかするだろう」
と思う人もいるでしょう。
でも実際に、嫌いなものを差し出されても「嫌」と言えない人の大半は、嫌なものが大なり小なり関係なく目の前に回ってきたとき、ただ「受け入れるしかない」と思って受け入れる。
たとえば、ではこういう“我慢エネルギー”がない人の場合はどうだろう。
それはやっぱり、嫌なものは「嫌」と言える。
だから、たとえばチューイングガムを渡されそうになったら、「あー、ごめんね私、チューイングガム嫌いなんだ」とあっさり言うでしょう。
すると、その人はチューイングガムを食べないで済む。
それだけじゃなくて、こういう人はことごとく「それは嫌いなんだ」「これはちょっと無理」「あれはダメなんだよね」ということをどんな場面でもはっきりと言う。
するとさ、それはその人のキャラクターにもなっていって、「あの人は嫌なものは嫌とはっきり言うから使いづらい」と思われたり、逆に言ったら周りが遠慮しはじめて「あの人はどうせ嫌だとハッキリ言うだろうから、この面倒な案件はあの人に回すのはやめておこう」という風にもなる。
その部署移動の話も、その人のところにそもそも回ってこない可能性が高くなる。
要するに、自分の世界は自分の選択が創っているという最たるものがこれであって、言ってみればこれ以上でも以下でもないかもしれない。
きっぱりはっきり、自分のために嫌なことは嫌だと言える人は、嫌な体験に遭う可能性がことごとく低くなり、欲しいものを欲しいとハッキリ言える人は、ことごとく自分のために本当に欲しいものを手に入れるチャンスを増やしていき、そして必ず手に入れる。
結局こういうことでしかないんです、現実創造って。
自分の選択が自分の人生を創るというけど、それはそんなに本当は小難しく考える必要はなくて、ただ「ノー」と言えるか否か、そして「ノー」というタイミングと言い方を間違えないかどうか、これだけなんですね。
だけど、実際には心の内側に「恐れ」をたくさん抱えてしまっている人は、たった一言のこの「ノー」が言えない。
すごく実は簡単なことなのに。
相手は別に怒りもしないし、呆れもしないし、「あ、そ」って思うだけなのに、それでもそれが言えない。
ただ、怖いから。
怖さっていうのはさ、本当に理由はなくて、カゲロウみたいなもので、何があったから怖いとか、恐れるとかじゃなくて、理由も何もなくてただ怖い。
そして、その恐怖心は心の奥底に刻まれていると表層化しづらくて、自分がその根源的な理由のわからない恐れを持っていることにすら気づかない。
そして、ただ自分のためだけに生きようとか、頑張って自己主張してみようとかチャレンジしてみるんだけど、いざその場面になったらできない。
そして、「まあーいいや、私は特にこれが嫌じゃないし」「私はそこまでそれが欲しかったわけじゃないし」と、諦めるんだけど、本人は諦めと思っていかなくて、「私ってあっさりした性格なのよね」と、むしろ前向きに捉えたりする。
まあこれは一時期の私自身の話でしかないのですが、この状態から脱して今わかることは、「本当に私はそれでひたすら損をし続けてきたんだなあ」ということ。
なぜかというと、ただひたすら自分の居場所を明け渡してきた、他者に。
家族にとか、愛する人に、ならまだ救われる。
だけどほとんどがそうじゃなくて、どうでもいい人たち、というと言葉が悪いけど本当にそう。
もう金輪際関わることもないし、言ってみればその人たちだって「明け渡してもらった」とすら思っていないし、そもそも明け渡してほしいとも思っていなかったに違いない。
そして、「あ、そ、いらないの。じゃあもらっとくね」と、ただ気軽に差し出されたものをもらって、でも大してほしかったわけじゃなかったとしたら、ポイっとそれらをほかす。
なんだろう、この無意味さ、むなしさ・・・。
だから私は今では嫌なことは「嫌」と割とはっきり言えるようになっていたり、必要のない会話にはあえて参加しなかったり、どうでもいい人のことはただ眺めて見ているだけになった、なれたけど、そうじゃない人がやっぱり日本人は多すぎるなと思います。
このレッスンは、やっぱり周波数を上げていくレッスンに他ならないけど、でも、日常的に自分自身の意識を変えていく中で、少しずつ気を付けていくことはできなくもない。
だからみんなも、「自分を大事にしたい」と思ったら、どんな些細なことでも嫌なことは「嫌」という、気分が乗らなかったら愛想笑いもしないでただシンプルに自分の気持ちを表す、誰よりも自分の気分を優先させることを実行していってほしい。
コツコツとでも、小さなことから実行していくうちに、そのエネルギーが消えていけば、大きな部分でも働かないようになると、“し損ねない自分”にだんだんなっていくことができますよ。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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