2019年2月10日
私たち日本人が平均的に持たされている「苦しさ」とは
最近の気づきについてもう1つ。
私の苦しさについて。
私の、というよりは「私たちの」っていう言い方のほうがぴったり来る。
なぜなら、この苦しさこそ、私たち日本人が均等に持たされてもいる平均感覚に他ならないから。
たとえば、「人はどうでもいい」という言葉がある。
だけど、これこそパラドックス的に捉えれば、「どうでもよくなれない」からこそのこの言葉があるとも言える。
だって、本当にどうでもいいと思える人たちは、そんなこと考えもしないから。
どうでもいいもよくないもなく、勝手にどうでもよくなってる。
だけど私たち日本人のアイデンティティの中には、この「人がどうでもよくあれない」何かが深く根ざしている。
たとえば、人と見比べる。
人よりも劣っているのかうまくいっているのか、綺麗なのかそうじゃないのか。
いい学校に行けていたのか、いい就職先に就職できたのか。
人よりいい旦那と結婚できたのか、できていないのか。
私たちは常に見比べられ、そして見比べながら生きてもきた。
意識の探求をここまで進めてきた私ですら、今頃、このアイデンティティに深く根ざされていたんだって気がつく。
そしてこの苦しさこそ、独りで勝手に生きていきたいが、なかなか生きれないような、1人であれないブロックも作る。
なぜなら、1人だと見比べられないから。
私は人よりこんなにいいものを持って、こんなにいい地位に恵まれて、こんなにいい暮らしができてるんだって確かめられない。
そうすることは、それなりの優越感や満足感を自分に与えるけれど、でも、そこから降りられなくなるとただ苦しいだけ。
形骸的な、外側のものを守るだけの、辛く苦しい社会生活にならざるを得ない。
もちろん、これは私だけのことじゃなくて、世間一般の、もっと降りられなくなっている人や、今後降りられなくなっていく人たちのことを含む。
私の場合は、仕事はそれなりの満足感を持ってやれているし、降りるも降りないもない。
けれど、もっと一般的な企業に勤めたり、自分のやりたいことと真逆の人生を送っている人は、人と比べてそれなりにいい暮らしをしていたら、そこにしがみついて、それがどんなに苦しくてもやめようとはしない。
なぜなら、それが欲しいから。
自分のものであって欲しいから。
だけど、自分のものであって欲しい暮らしを維持していくためには、ただ苦しいという日常を送らなくてはならない。
この矛盾。
この葛藤。
それでも、燃え残るブロックが少ない人たちだったら、その自己矛盾を抱えてでも毎日を夢を叶えるためにがむしゃらに努力する有意義な日々にも代えて行けるだろう。
だけどそうじゃない人たち。
ただ生きさせられているような人たち。
夢も希望もないけれど、そこそこいいと思い込んでいる暮らしの中で生きれてしまっている人たち。
私たち日本人のアイデンティティは、「一億総中流」と言われた昭和の時代のまま止まってしまっている。
なぜなら、下流になりたくないから。
だけど、下流ってなに?
どんな暮らしが下流だっていうのか。
それもこれも、「見比べる文化」から勝手に生まれた妄想でしかない。
だから私はここハワイにいるととてもホッとするのは、やっぱりここには生きとし生けるものたちの確かな息吹がある。
誰がどうでも私はこうだからっていう、無理やりにしてるわけじゃないナチュラルな自己主張感があっちにもこっちにもあって、
「あっ、それでよかったんだよね!」
と、勝手に気づけたりする。
だから私は、まさに日本人そのものともいえる、私の中にある「どんぐりの背比べをしていたいブロック」を、ここでは燃やすことができていると思う。
ここハワイから世界に出て行きたいし、そのためのアイデンティティは、解除セッションなんかをしなくても培われていく。
だから、そのアイデンティティを、こうしたブログなどを通してもっと日本のみんなに届けたいと思ってもいます。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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