2020年11月9日
朝方得た新しい気づき、それは新しい宗教観
今日もハワイは晴れ。
日曜日ですが、朝から犬の散歩がてらスタバに来てフラペチーノを飲んでいます。
今朝からずっと、いろんな気づきに浸されている。
気づき。
気づきって、なんだろう。
それは、気づかせなかった力の崩壊。
これまで、誤った認識を延々とさせ続けていた、何らかのエネルギーがどういう方法にせよ、取り去られたとき、新しい認識は起きる。
私の場合、最新の気づきは。
これまでの自分のさまざまなことに対しての、感謝の足りなさについて。
私の認識と他者の認識のズレについて。
それを、単なる相容れなさだと片付けて疑問すら持たなかったことについて。
そうじゃなかった。
私がズレていた。
独善的で、画一的で、人の想いを受け止められていなかったということに。
気づいた今、そこからやはり、新しい状況はもたらされてくるのだろう。
今朝方、また、エネルギーが大幅に変わる夢と同時に、その感覚を得ながら寝ていた。
その感覚は何とも言い難くて。
例えるならば、これまでの自分の宗教観が全て覆されるような。
宗教観って、なんだろう。
単なる、神様や神ごとに関する意識とは違う。
それは、他者へのありがたみであると同時に、生かされていることの意識、そして、生きとし生ける全存在への感謝。
そんな、本当の意味での宗教的意識、それこそ、一つのスピリチュアリティとしての、高次の意識、またそれにつながる自分の意識の向上なのだろう。
私のパターンとして、密かに存在する「生意気ブロック」。
全てを知っているような、全てを理解しているような気になって、偉そうなことをほざきながら生きていて、でも、必ずどこかで気付かされる。
自分の驕りに。
驕るのは、なぜなのか。
ものを知らないから。
全ての人たちの相関関係の上に成り立つこの世界において、自分だけが孤独であるような気がして、自分だけが奮闘しているような気すらしていた昨今。
しかし、そうじゃなかった。
全ての人は孤独であり、奮闘していて、そして生きることは楽しい。
楽しいと同時に、大変でもある。
それを皆、認識しながら生きている。
そして、引き続き生きていく。
そのことにすら思い至れないとき、私の存在価値はちっぽけでしかない。
心の叫びとしての、自分の不甲斐なさ、そして、高次の存在たちの大きさと暖かさを感じる今、どれだけ自分は許されてきたのだろうかと思います。
あらゆる全ての人たちに。
あらゆる全ての物事に。
それを気づかせてくれた人たちに、心からの感謝を今伝えたい。
そんな、早朝からの気づき。
これもやはり、セドナ遠隔による、一連の呪術解除の成果に他ならないんだなあと、今、思います。
たくさんの方々に、お礼と感謝を伝えたい。
伝えるだけでなく、同じ想いを、感覚を味わっていただけたらと思います。
そのために、また引き続き、解除セッション等行っていきますね。
また書きます。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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