2022年1月19日
日本とハワイに滞在して感じた新しい意識と「今ここ感覚」
今、ロサンゼルスに向かう飛行機の中でこれを書いています。
約4ヶ月の日本滞在を経て、久しぶりにロスの家に帰ります。
犬たちに会える!自分の部屋や置いてきた荷物たちにもまた合える!
そう思うと嬉しくてたまりません。
それまでの間、日本を出てハワイに約1週間滞在して思ったのは
「日本でもハワイでも、違和感なく生活しているなあ」
ということ。
何か、疎外感とか慣れない感じとかおかしな感覚はなく、
「ただそれが今の自分の生活なのだ」
と受け止められていて、そして久しぶりのハワイだとか、2年ぶりの日本なのだとか、何かそういう感慨のようなものもなく、ただ普通だったのです。
ずっと前から変わらずそこに居続けていたような、そんな感覚。
この感覚を説明するのとても難しくて、なぜならそれが
「今ここ」
にいる感覚そのものだから。
誰にどうやって、私がようやく得た
「今ここ感覚」
を教えられるのか。
それはやはり、体験によってしか理解されることのない感覚です。
でも、せっかくなのでトライしてみたいと思います。
エネルギー解除セッションを何度も繰り返して、ようやくたどり着いた
「今ここ感覚」
がどういうものなのか。
たとえばそれは、
「今この瞬間以外は消え失せている」
という感覚です。
あるいは
「目の前にあるもの以外の情報も興味も、その他あらゆるもの全てが頭の中にない状態」
とも言えます。
そしてそれは、違和感がない、という意味合いにおいて、とても満ち足りている感があると同時に
「それはただそうである」
と勝手に腹落ちしていくような、そんな感じ。
そして、その感覚を持ち得た今、人のことや他のこと、「今ここ」にあるもの以外への興味がほぼない。
興味がないというよりも、思い浮かびもしないのです。
だから、ラインやメールの返信は、どうしても遅れがちになります。
なぜなら、「今ここ」にしかいないので、「他」から入ってくる情報に疎くなる。
疎くなるというよりは、なんというか、そもそも今の自分の中に存在しない「他」のものは「他」のものでしかなく、それらが入る隙間がない、という方が正しいでしょう。
以前の私だったら(正しい「今ここ感覚」を得る前は)、それでも一生懸命LINEやメールの返信をしなくてはと、携帯やさまざまなガジェットツールに意識を持って行っていたかもしれない。
それはなぜなら、失礼に当たるだろうとか、憤慨させるかもしれないとか、要するに「他者の意識」に振り回されていた。
そして、そんな自分にも気がつかず、「それは人として当たり前のことなのだ」と思い込んでもいました。
今気づくのは、やはりそれは「恐れ」だった。
結局は人に嫌われたくないとか、失礼な人だと思われたくないとか、そういう、他人の視線や意向を気にしながら生きさせられていただけだったということ。
でも今の私には、それがほぼない。
だからたぶん、とても迷惑をかけてしまっている人もいるかもしれないし、失礼な人だなあと思われているかもしれない。
でもまあいいかー、というのが、率直な気持ちなのです。
でも、それが実はいい、という話を、理由とともにこれからしたいと思います。
人は結局、無理できない、という話です。
やはり私という人間は、自由人でしかなく、人の意識にとらわれたくないのだ、と、自分の固有のパーソナリティに、まず気づく必要があるかもしれません。
私はそうだけれど、他の人たちはそうじゃないかも知れなくて。
だとしたら私は、そんな私を許してくれるような、あるいは、私と同じような自由奔放な人とだけ関係を持てば良くて、キッチリした「時間やタスク管理命」、みたいな人とは無理してまで付き合う必要はないのだということ。
そして、これこそが今のアセンションしていく地球の鋳型そのものだということです。
類は友を呼ぶ、の世界です。
似たような思考を持つ人たちとしか、今後はつながれなくなる世の中が既に始まっています。
そして私の場合は、こだわりを持たないタイプの自分と、こだわりだらけの自分という、二つの自己矛盾を抱えた人間です。
それがオリジナルな私であるときに.嘘偽りなく生きていくためには、こういう私と喜んで付き合ってくれるような人だけが近くにいればいい。
そうじゃない人とは、うまくいかない。
怒らせるだろうし、嫌がられるだろう。
迷惑を積極的にかけたいわけでもなくて、ただありのままの自分で生きていきたいだけなのですが。
だからこそ言うのは、
「今のあなたは、他者に合わせすぎていないでしょうか」。
さらには、
「他者にの事情を理解しようと努めすぎていて。そして疲れていないですか?」
もっとシンプルに考えていけばいい。
嫌ならやめればいいし、それがいいなら続けていけばいい。
ただそれだけ。
私自身、そんな風にシンプルに考えていけるようになったのも、やはりこれは
「今ここ感覚」
と紐付いた、
「ただあるがままを生きている」
という状態なのです。
これこそが、多くの「恐れ」が取り外されてきた証拠です。
そして、「恐れ」のない世界はとても生きやすい。
また、最近の私にもう一つだけ新しく芽生えてきた感覚に
「難しく考えることが面倒くさい」
というのがあります。
実は、この感覚こそ、「恐れ」が縮小されてきたことの表れなのです。
いちいち考えていると、疲れる。
どうだっていいじゃん、と思える。
たとえば、前の私だったら
「やっぱりアメリカで生きるのは怖いな〜」と、事あるごとに思ってきた。
でも今は、ふとそう思った直後に、なんだかそう考えるのも面倒くさい、という気持ちが湧き上がってきて、「どうでもいいわ」という気持ちが出てくる。
これは、一種投げやりに思えるけれど、まったく違います。
本当は、もう怖くないのです。
そして同時に、後悔や反省をしていない状況でもあります。
考えたって仕方のないことを考えても意味がない。
これに尽きます。
だから、「あらゆる、今どうにかできないことについて、あれこれ考えない」。
考えても時間は巻き戻せないから。
何かが起きるわけでもない。
誰かについてもあまり考えくなった。
誰かのことは動かせもしないし、肩代わりもできない。
たとえば、怒らせたり悲しませてしまったことがあるとしても、だからどうなのだ、という考えです。
私は私のやり方を通しただけで、それで相入れないなら仕方がない。
ただそれだけ。
そしてもう一つだけ、実は新しい気づきがありました。
それは
「私って実は他者にあまり興味がなかったんだなあ」
ということ。
人と話すのが好き。
人の話を聞くもの好き。
でも、だからどうだということもなくて、ただそれはそうなだけ。
これって結局は人や人の事情に興味がないからで、しかし私は人の悩みを聞いたりおもんぱかるような仕事についている。
それはなぜなんだろう、と考えてみると、ただ「人が好き」なだけ。
「好き」と「興味がある」は違うのだと、今まさに、最新の気づきをこれを書きながら得たのでした。
が、しかし。
だからって、どうということもない。
今日も私はまた刷新されて、新しく受け取ったエネルギーと共に新しい自分を生きていく。
以上でも以下でもないときに、実はこれこそが、正しい
「今ここ感覚」
なのだ。
という、謎かけのような言葉を残して、今日のブログば終わろうと思います。
ロスに向かう機内より。
けいこヴァールサイトでした。
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
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