2018年11月12日
全方位的な幸せは「自分の心に嘘をつかない」ことから
今日は、私たち地球に生きる人間たちがし損ねるクセについて。
全方位的に、みんなし損ねていること。
それは、全方位的に、ただひたすら100%の幸せだけは追い求めないということ。
なぜかというと、私たちは「叶わない」という現実を幼少の頃から生きさせられてきて、そして叶わないからこそ「諦める」ということをただしつけられてきた。
わがままを言ってはダメ。
そんな高望みをしてはダメ。
あの子に優しくしなくちゃダメ。
あなたはいい子でいなくちゃダメ、でもあの子たちは悪い子でも大丈夫、でもあなたはいい子でいなくちゃ。
その結果、私たちは何を手にしたのか。
全方位的な幸せじゃなくて、ただ一部分の幸せ。
そして、それはそこそこいい世界を創りもする。
たとえば、いい子でいるからこその、仲間たちとの気持ちのいい関わり合い。
あるいは、ちゃんとしているからこその、そこそこいい会社でいいポジションについている自分の立場。
もしくは、私たちがし損ねないためだけにいる、あらゆるすべてのものとの関わり合い。
それはたとえば、ていのいい奥さんだったりする。
あるいは、教育ママ的な仲間や奥さんや先輩や親や兄弟。
その人の言うことを聞いていさえすれば、とりあえずはし損ねない。
し損ねないって何かというと、たとえばお金に困らない。
会社をクビにならない。
社会からあぶれない。
子供をちゃんと育てて、社会的なポジションを得られて、たくさんの人からスマートだと言われて幸せをそこそこ感じられる「まとも」な人生を生きられる。
だけど、「まとも」ってなに?
ちゃんとした会社に勤めること?
子供をしっかり育てて大学に行かせてそれなりの会社に勤めさせること?
あるいは、お金を5000万円貯めて老後に備えること?
そして、夫婦揃って引退したら、ちょっとずつその貯金を切り崩して生活をして、死ぬまであぶれないということ? 社会的な「まとも」競争から。
私はそうは思わない。
だって、そこに本当の幸せはあるだろうか。
充実度溢れる心持ちと、気持ちの良さと、毎日自分の人生を生き切ったという感想はあるのか。
私たちは何のために生まれてきて、何のために生きるのか。
私たちは、幸せを感じるために生きるんじゃないのか。
生まれてきたことを尊び、喜び、感謝しながら1日、1日を生きれるとき、そこにこそ始めて生を受けたことの意味が生まれるのではないか。
たとえば、一生を経済活動に費やす人がいるとする。
それもよし。
それが心底好きならね。
だけど、それは形骸的でしかなくて、喜びが伴わなかったら、それすら意味がない。
お金を稼いでナンボ、だけど幸せじゃない。
稼いだお金で幸せになれる場所を探し、ただ右往左往するだけ。
だけど、実はそれでもいい。
なぜなら、私たちはただ生きることに意味があるから。
ただ、体験することのみに意味がある。
ならば、退屈な体験、ひどい体験、人に裏切られたと思う体験、それすら価値がある。
だけど、それも価値なら、喜び、全方位的な幸せ、心が震える感動だって価値がある。
なら、私はそっちの価値を選びたい。
ただそれだけ。
中途半端に溺れないで、守りでガチガチに固めた日常に退屈しないで、自分の人生に疑問を抱かないで生きていきたい。
それは「刹那的」な生き方だと蔑まれる向きもあるだろう。
それでも私はいい。
なぜなら、私は一瞬、一瞬を生き切りたいから。
今この瞬間、最大限に幸せでいたい、ただそれだけ。
自分に嘘はつきたくない、それだけ。
だって、心は知ってる、幸せになる方法を。
それはただ、今この瞬間の自分に常に正直でいること。
全方位的な幸せはそこからしか得られない、本当に。
だからさ、みんなも自分に正直に。
今、これは過去の私に向かって言っているのかもしれない。
自分の心にちょっとした嘘をつき続けてきたから。
「これでいい。これが欲しいはず。この程度が自分には十分」
そんな言葉で、自分を納得させ続けてきた。
そこそこで満足できるように、満足するようにって。
でもそれは、逃げでしかなかった。
この先何があっても後悔しないように生きたいな。
もうそろそろ、人生をまとめ上げるような時期にも入っているからね。
もう迷子になって、来た道を後戻りはしたくない。
みんなもそうだよね。
まあ、これは私のやり方、私の考えでしかないから。
みんなはみんなの生き方を。
でも、心にはいつでも正直で。
ではまたね。
Mahalo
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