2018年6月19日
ガウディの一生をサグラダファミリアで想う〜旅の終わりに〜
ガウディのサグラダファミリアについて。
旅の最終日、私たちはバルセロナにあるサグラダファミリアに行った。
今回の旅は、何度も言っていますが、単なる観光旅ではなく、グループソウルとしてのカルマのぶっこ抜きをメインとした神参り旅。
スピリチュアルメンターあべけいこが高次元存在と話を煮詰めた上で、どの場所のどの寺院にいつ行くかを計画、そして遂行された。
ここ、サグラダファミリアは、ともするとスペイン旅行の大きな観光地と考えられがちだが、違った。
とても旅の中では重要なポイントとなったのだ。
なぜなら、ガウディの生き様。
もともと、南仏からスペインを回る間、さまざまな霊場や霊験あらたかな寺院をポイントとした計画が練られたが、ここ、サグラダファミリアも当初の計画時にいの一番に名前が挙がっていた。
それくらいの重要拠点だったのだ。
行ってみるまではわからなかった。
ただ、「サグラダファミリアって、教会だったんだ!」なんていう、あまりにも稚拙な感想(笑)。
ガウディ建築の未完のものということで、単なる観光用の大きな建物なのかと思っていたのだ。
知らないって怖い
しかし、行くことになってチラッと調べたら、教会。
なるほど、だから観光ぽいけど何かあるんだなあとだけ思った。
こちらはサグラダファミリアの中の写真。
最近、急に工事が進んでこんなふうに出来上がったそう。
外観とだいぶイメージが違ってハイカラです。
さて、ここでガウディの話です。
世界中でガウディの名前はとても有名で、知らない人はほとんどいないのではなかろうか。
そんなガウディは、73歳で死ぬまで独身を通し、ミサに行く途中に路面電車に轢かれて亡くなった。
晩年は全く身なりに構わなくなり、ただひたすらサグラダファミリアの建築に没頭していたため、路面電車に轢かれた時に浮浪者と間違われ、タクシーに乗車拒否をされ、手当が遅れて3日後に亡くなったそう。
小さな病院に搬送されたガウディは、そこで初めて
「あの珍妙な教会を作っている建築家だ」
と知られ、
「では、大きな病院に移そうか」
という話が出た。
しかしガウディは
「私はこの貧しい人のためにある病院に残る」
と断り、不十分な手当てで亡くなったという。
ガウディの作品は前衛的過ぎたためか、生前は功績という功績を残していたわけではなかった。
たびたび建築資金の問題や社会的な背景もあり、制作途中で撤退を余儀なくされることもあった。
1883年、ガウディが31歳の時に前任者が辞めたものを引き継いだ形で、サグラダファミリアの主任建築士となった。
この頃、ガウディは生涯2度目の失恋をし、さらに母や兄を亡くすなど不幸が重なり、それらをきっかけとして敬虔なカソリック信徒となっていった。
人生の後半生では、宗教施設以外の建築を全て断ってサグラダファミリアの建築に邁進していたそう。
さて、私たちは一通り観光的にサグラダファミリアのあちこちを見て回った。
素晴らしい造形物の数々。
曲線のこだわりのある柱や壁のモチーフや飾り物。
でも、なんだか建物の中は息苦しい。
明るい、軽い感じはしない。
たくさんの人が楽しそうにさざめく教会なのに。
でも、そのあとの高次元存在の言葉で理由がわかった。
「ガウディは未だ囚われているんだ。
彼はこの建築物に囚われてしまった。
そしてこの建築物は、完成しないためにこそあるんだ」
そんな風に高次元ガイドたちは言った。
「どういうこと?」
「すなわちさ。
すなわち、ガウディはとある魔物に囚われてしまったんだ。
彼はそれを悪魔だとはもちろん思っていない。
だけどそれは悪魔的組織の顔をしていなくても、悪魔に他ならない。
例えばそれは、私たちが時々キミたちにも話すダークサイド存在のような。
崇高な存在のふりをして、でも悪魔でしかない。
宗教的価値観でその人を縛る。
例えばさ、『神はそれを望まない』だとかさ、『神はそれを奪う』だとかさ、『神はそれを与えたもう』だとかさ。
だって、本物の神はそんなことしない。
なぜなら、万人共通の理解として、神は光なんだ。
光は愛なんだ。
愛ある存在は、そんな一元的な物の言い方をしないだろう、いつも我々がそうであるように。
いつだって神の名を騙る愚か者はいる。
それは人の中にだけじゃなく、神の中にもいるのさ。
荒ぶる神、もしくは低すぎる神ね。
だからさ、ガウディはうっかりそれに囚われてしまったんだ。
可哀想に、晩年の彼は惨めでしかないだろう。
なぜ、本物の神につながっていたとしたらそんな死に方をしなくてはならなかったんだ。
なぜ、自分が手がけた作品は愚にもつかない奴らに潰されて、たびたび日の目を見なかったんだ。
なぜ、頓挫した作品がたくさんあったんだ。
本物の神ならそんな真似はさせない。
神は宗教の中にいるんじゃない。
万人共通の元に、光として降り注ぐ。
その時その人はただ悟る。
『ああ、これは日の目を見ないな。だとしたらもうやめておこう。
これは愚にもつかないな、ではやめておこう。
これは私を傷つけるな、では手を引こう』
なぜなら、正しい守護者としてある神的存在は、その人を守りたいから。
その人に幸せになって欲しいから。
修行なんてさせたくないんだ、本当は。
勝手に人は修行をしていく。
特に神的存在たちが求めてもいないのに。
宗教的犠牲者になれなんて誰も言っていないのに、勝手に犠牲者になっていく。
なぜなんだ。
神的存在たちは不思議でたまらないんだ、人間の愚かしさが。
だから私たちは、旅の終わりのイニシエーションの場所にここを選んだ。
ここしかないと思った、むしろ。
あなたたちは、これまでもたくさんの寺院を見て回る中で、宗教裁判にあって殺されたたくさんの経験あらたかな人たちの影を見ただろう。
たくさんの、異端の宗教徒だと言って殺されていった悲しい者たちの影を。
だが、ここ、サグラダファミリアにはそれとは違う、もっと愚かしい影がある。
誰もとらえていないのに勝手に自分をとらわせる愚かしさ。
それこそが現代病さ。
あなたたちは何にも囚われていない。
ただ、自分に囚われているだけなんだ。
もう時代は変わった。
何者もあなた方をとらえない。
自由なんだ、現代は。
だからさ、古い風習や、考え方や、古い時代に過ごした心のクセを持ち越すことはない。
ただ、自由であれ」
旅の終わりに。
私たちは、この旅で何を悟ったんだろう。
何を授かったんだろう。
まだそれは完全にはわからない。
だけど、これだけは言える。
私は変わったと。
ただ、心の安寧がある。
あると思い込んでいた心の安寧。
得られてみて初めて、それはなかったんだと気づく。
あれが欲しい、これが欲しい、こうなっていきたい、こう見られたい・・・。
その心は、ただ心の安寧がなかったことにある。
ただそれだけだった。
いま、この旅を終えて私が思うことは、ただそれだけ。
何もない。
何もないがある。
ただそれだけでもよかった。
ただ生きているだけで満足だった。
だって楽しいから。
だって眩しいから。
太陽は眩しい。
明日は楽しい。
ただそれだけでよかったんだって。
今更ながら気づく。
たくさんの良きこと。
たくさんの悪しきこと。
それもどれも人生。
たくさん、今世の私もいろんなことを経験した。
でもまだ経験していないのは、心の安寧だけなのかもしれない、もしかして。
私は、しっちゃかめっちゃかに忙しくて、あっちもこっちもと飛び回って、あれだこれだと騒ぎまくって、最終的には『何もない』境地に達するまでの旅をしているんだろう。
なんだか、ちょっとだけ悟った。
そんな旅でした。
最後に、旅の仲間にありがとう
一緒にたくさんの貴重な体験をしてくれて、本当にありがとう
愛してます。
フォーエバー。
だって、魂の旅はまだまだ続く。
この星じゃなくても。
来世もまた。
また会おう
何度でも。
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