2020年7月28日
『もののけ姫』、そこにはリアルな私たちの持つ問題の元があった
もう一つの、この映画に込められている重要なメタファーとは何か。
端的に言って、私はお芝居を見ているようにしかこの映画を見ていなかったが、高次元の存在たちは
「この映画こそ、かつて先祖たちが生きた現実のリアルだ」
と言った。
私は一つ気がついたことがあったのは、確かに、私もきっとこの時代に生きたことがあったであろうこと。
室町幕府がどうであったか、朝廷との確執がどうであったか、民衆が皆、自警団をこしらえながら細々と地方で生きながらえたのか、生きながらえなかったのか、知らない。
知らないけれど、私は確かに知っている感覚でこの映画を見ていた。
だって、ストーリーが複雑で分からないところがあったり、
「えっ、そういう流れ!?」
と、少し疑問に思うようなところがあったりしても、とにかく目が離せず、口をポカンと開けたまま、画面に吸い込まれるように、一体化しながら2時間半、見続けた。
それは、ストーリーがどうのというより、自分と登場人物を重ね合わせるというより、世界観に見覚えがありすぎたこと。
そしてそれは、恐怖の記憶でしかなかった。
なぜなら。
いつ死んでもおかしくない世界観。
子供向けアニメのはずなのに、簡単に人は死ぬ。
しかも、けっこう残酷に。
アシタカが放った矢は、右腕の呪いのせいで威力を持ち、簡単に人の首を飛ばす。
あるいは、両手も。
たたら場のボス・エボシが山神を襲いにいくときも、崖から落ちたり、大砲のせいで盛大に人は死ぬ。
でも、アニメの中の人たちは、それを驚くとか悼むとか、
「どうしよう!?」
とおののくこともなく、いたって普通である。
横で、さっきまで一緒に馬を駆っていた仲間の侍の首がなくなっていても。
それを見たとき私は
「ああ、これもきっとリアルなんだろうな」
と思った。
だって、たたら場の男たちは皆、火縄銃を持って山神退治に山に行き、その間、女どもは火縄銃を持ってたたら場を守るが、侍たちに襲われて戦は始まる。
山でも殺し合い、たたら場でも殺し合い。
そして、大勢の人たちが死んでいる。
仲間が死んでいても、平気な顔をしている人間たち。
それを見たときに、その昔は、死は当たり前のことで、短命に終わるのは普通であったこと。
人はエゴでしかなく、欲しいものは力づくで奪うのが当然であったこと。
だから皆、簡単に殺されないために自警団を作って身を守り、そのためにコミュニティで仲間意識を高めてお互い守り合うのは文化であったこと。
だからこそ、掟を破る者がいると命取りになるため、皆で最小限のことだけをして、掟を決めて、守らない者が出たら、同じコミュニティの中の者でも簡単に殺していたであろうこと。
これらを察知したとき、それが、未だに私たちの内側に、DNAを通して、また魂の記憶を通しても息づいているのだ思った。
これかと。
私たちを操作してやまない恐怖、人や場や掟に従わざるを得ない意識、コミュニティを作って固まりたがる意識の元はこれなのかと。
気づいたのです。
今、私は解除セッションや動画やブログ等を通じて、日本人意識の解放のための作業に、熱心に取り組んでいる。
しかしその意識は、私たちが延々と生きた日本の過去世の中に、これほど染み込んでいるものだったとは。
リアルを目の当たりにしたことで、驚いたと同時に、実感がさらに増した。
いつも、高次元の存在たちに言われるまま、促されるままやっていたところがあったのですが。
なるものをやってきていて、今はこういう呼び方はしていませんが、中身はほぼ変わりなく
「個人の自由を欲しいだけ獲得する」
意識になれるように、というセッションを繰り返している。
私自身が結局、完全に解き放たれていないのは、このような、室町時代から延々と続く、あるいは戦国武将たちが戦った時代や、その後の江戸幕府の厳しい統制も含めて、あまりにも長い間日本という国がこういうしきたりや掟に取り仕切られすぎていたからなのだと。
知った今、リアル感が増し、増すと同時にやる気が今まで以上に起きてきているが、同時に、さあ、どうしたもんかと腕組みをする自分もいます。
皆にもぜひ知っていただきたかったのは、私たちの不自由な生活を作るこのような文化風習は、実存していたのだということ。
ただブログで、個人的な感想プラスアルファで私が言い立てているのではなく、実際にリアルであるということ。
ここから、また一つ皆の覚醒が促せたらいいなと思っています。
こういう文化風習の果てに私たちに染み込んだアイデンティティは、やはり簡単には取れないものだから。
エネルギーワークしかり、さまざまなものの教えしかり、自己啓発の手法しかり。
いろいろと人生を変えるツールはあるけれど、そんなものでは、やはりこの根深い文化風習からくる染み込みは取れない。
なぜなら、この文化風習に加えて、あちこちのコミュニティで皆が死に絶えないように必死にやっていたのは、やはり行者や祈祷師を通して行う呪術だったであろうから。
だからこそ、呪術解除なのです。
私は、人に疑われても批判されても、この手法をやめないのは、やはりここには一定の効果というリアルが必ずあるから。
また引き続き、このような文化風習に絡めとられている皆様の解放を試みるセッションをやっていきたいと思います。
これらのセッションを行うことによる気づきも半端なくあったので、後でまた、シェア方々ご報告させていただきたいと思います。
ご希望の方は、急ぎお申し込みをされることをお勧めします。
気になる方は、募集要項等、ご覧くださいね。
それでは、本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
▼▼▼スポンサードリンク▼▼▼
▼▼▼スポンサードリンク▼▼▼
いいね!しよう