2020年11月7日
変わり始めた自分、それは「皆と同じでなくちゃならない」魔法の解放
昨日書いた、気づきについて。
ちょっとだけバージョンアップ。
違うんだ、人にどう思われるかが気になるんじゃなくて、人に迷惑をかけることの恐怖があったんだと、気づいた。
人に迷惑をかけたくない症候群。
だから、何でも自分でやってしまう。
頼れないし、頼らない。
弱音すらはかない(ほとんどの場合)。
あと、大変であることを気取られないように、いつも笑顔でいたり周りに気を配る。
自分の領域に基本的に人を立ち入らせないのも、ここからくる魔法なのだと思う。
これ、最近わかってきたのは、うちの母方の家系の先祖系呪術です。
一族郎党、みんな母方の家系の人たちは働き者で他者に気をつかう。
周りに迷惑をかけないように、合わせることが得意。
個の喜びより、他者と同一化することの中に安寧の気持ちを見出すので、できるだけ頭が他より出ないように、出ないように気を配っている。
以前、2人の叔母と母がオアフに遊びに来て、一日4人で過ごした時に実感した。
レストランやカフェに連れて行っても
「みんな同じのにしたら時間がかからないから」
とか
「お店の人が困らないでしょう」
とたびたび言う。
自分のオーダーがどれで、何を食べたくて、と言う自己主張よりも、全体に合わせて滞りなくこの場が過ぎることを優先させている行動。
私は私で、頼まれてもいないのに全て叔母たちが気に入りそうな一日のプランを立てて、次から次へとニコニコと案内をし、くたびれ果てた。
全員、全体性の魔法にかかっているので、それはそれはスムーズで、
「やはり親族同士はエネルギー的に似てるから、こんなに違和感がないんだな」
と思ったけど、それだけじゃなかった。
迷惑をかけないように、と全員が骨の髄まで染み込んだ思いによって行動をしているから、本当にスムーズであっただけ。
今、思い返してみると実感します。
私はそれでも一族の中でかなり変わり種で、いつも親や親族たちに迷惑をかけるのは私くらいのものだった。
法事に遅れたり、親族の集まりに参加しなかったり、うっかり忘れたり。
その度に母が「恥ずかしいわ、本当になぜあなただけいつもそうなの」と言っていた。
私は全体性の魔法にかかっていないつもりでいたけど、でも、全くそんなことなかった。
いつもどこかで、はみ出し者の自分の行動を恥ずかしいと思い込み、人に合わせることに一生懸命だったし、合わせられない時、落ち込んだり情けなくなったり、自己肯定感を低くした。
もし、私に全体性の魔法にかかっていないとしたら。
一人孤独でも、それほど苦にならなかっただろう。
独り身であり、変わった職業をしていて、同じくらいの年齢の友達がみんな持っている、あれやこれやのことを持っていないことにも罪悪感や恥ずかしさを感じることもなく、ただ
「私はそうだから」
で済ませられていたはず。
あるいは。
私はもっともっと、風来坊みたいな生き方ができていたかもしれない、とも思う。
今だって十分、風来坊みたいな生き方をしているようだけど、でもどこかとらわれている。
普通の生き方に。
あるいは、人と同じような生き様に。
そうじゃなかったら、今の自分の境遇にもっともっと大手を広げてのめりこめただろうし、何を考えることもなかっただろう。
どこかで、人と違う生き方を選択したがっている自分に罪悪感があったり、寂しさを覚えたりするのも、やはり、全体性の魔法が関わっているからなのだと思う。
この魔法が解けるということは、やはりそれは新しい私の人生の幕開けに他ならなくて。
昨日の気づきは、たぶん、ここにつながってくるのだと思う。
自分ライクな、自分だけの人生観と、それを恐れず生き切る気概。
気概というよりは、ただ生きていく。
疑問も持たずに、罪悪感や気まずさも持たなくて。
ただ、「私はこうだから」。
それだけでいい、とみんなにも説きながら、結局は自分がハマり続けてきていた、この「皆と同じでなくちゃならない」という幻想。
取り外された後の私はきっと、今よりもっと自由。
臆病じゃないし、もっともっと、世界を気ままに旅しているかもしれないし。
逆に、どこかにようやく定住することができるかもしれません。
私の中の迷いと惑いをいつも作り続けてきた、この「全体性」という魔法。
取り外されたあとの自分の行動様式の違い、人生観の違いと、そこから起きてくるさまざまな変容を、楽しみにしています。
今日はここまで。
また書きますね。
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
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