2021年3月24日
変わる私の意識、それは結局は自己認識の下手さからもたらされてきていたこと
続きを書く前に。
ここで書くことは、とてもたわいのない、私自身のよしなしごと、その延長の話になっていきます。
なので、皆様への情報共有やこの世の法則への理解になっていくかは、わかりません。
それでもやはり、人の体験は、その一つの体験がもたらした出来事も含めて、多少、生き方の参考にはなっていく。
ですから、そんな感じでお読みいただけたらと思っています。
さて、話を巻き戻していく前に。
少しだけ違う話をしていきたいのですが。
私は以前から、かなりダークサイドたちにつけ狙われながら生きてきていた。
そのダークサイドコミュニティは、地下組織であるだけでなく、人間の普通の生活にも入り込んできている、ものすごく狡猾な奴らたち。
奴らは、人の生き血を吸うでもなく、息の根を止めるでもなく、ただ狡猾でいやらしくて自分たちのことしか考えていない。
だからこそ、生き延びるのがたやすく、言ってみれば、ダニやノミみたいな連中たちのことです。
彼らのようなアイデンティティを持つ人たちに出会うたび、私は胸糞が悪くなるだけでなく、憎悪の念すら湧いていた。
だけども、今回の変容の後に私が感じていくのは、いくらかの憐れみです。
ただ、それだけ。
本当に、ただ可哀想な人たちなだけなのだと、シンプルに思えるようになった。
怒りは、もうない。
もうないどころか、怒りのエネルギーを引き出させられていたことにすら、ムカつきというか、驚きを覚えて、なんてエネルギーを無駄に取られていたのかと。
本当にただそれだけを思えるようになった。
そして、話を元に戻していくと。
そんな感じで、エネルギーの巨大変革の夢を見させられ始めた数日後、私が体感として得た変化についてここからは書きたいと思います。
まず一点。
かつてあった過去の関係性に対して、本当に反吐が出るほど嫌だという気持ちが蘇ってきた。
蘇ってきたというより何より、正されたものの見方ができてきた、というだけのこと。
あいつがあのとき私にしたこと。
その正当な評価が、突然できるようになってきたとき、それはそのとき一瞬だけだけど、燃え上がるような怒りと痛みとともに現れた。
究極、自分の馬鹿さ加減に嫌気もさしたけども。
「変わるつもりがなく、ただこちら側の愛を貪るためだけに子供のフリをし続けた、成長する気のない赤ん坊を、何年間も費やして育てようとしてきた」というようなこと。
詳しくは、プライベートなことなので語れないのですが。
さらに言えば、その次の人間関係においても、私は重ねて同じミスを犯そうとしてきたことにも気づいた。
その対象者としての赤ん坊は少しだけ成長していて、小学3年生くらいになっていた、それだけのこと。
さらには、その全てにおいてタネを撒いてきたのは結局は自分でしかないことにも、重ねて気づいた。
成長できていなかったのは、私であって、とにかく私は前に進みたくなんかなかったのだと、気づかざるを得なかったこと。
人を通じて迷惑をかけられたがり、そのために、迷惑をかけてくれる人を選んでは、スタックをし続けた。
文句を相手に言い募りながら。
つい最近までそれは続いていた。
でも、今回の大変革でそれに気づいてしまった以上、私は変わらざるを得ない。
その人たちとの関係性もやがて変わるだろう。
しかも、大きく。
もう、自ら関われない。
関われる気すらしていない、今。
こんな気持ちに自分がなるなんて、わずか数日や数週間前にはわからなかった。
驚きの変化であるとともに、逆振りの変化も起きてきている。
それは、愛する対象が大きく変化してきていること。
内的変化の最たるものは、やはり、自己愛の薄さとも関連してきていて、愛を注ぐ対象者が大きく今、変わろうとしていることを感じる。
それはプライベートエリアの出来事なので、今は詳しくは言えませんが。
とにかく、この変化は私を驚かせると同時に、もうムカつかせることもなく、ただ、憐れみをとある人たちに注ぐ、そんな形に変わってきている。
なんて虚しい変化を求めて、私はこれまで奮闘してきていたのだろうかと。
心からの驚きとともに。
それもまた、私のエネルギーの変容によってもたらされてきていることも知った。
ここからは、話の趣向を少しだけ変えていきます。
私はまだまだ、自罰ブロックがあると信じこまされてもきた。
誰が信じ込ませてきたのか。
私自身に他ならない。
だけど気づけば、もうあまり自罰ブロックはなくなってきていた。
それよりも問題になっていたのは、自己愛の薄さと自己肯定感の低さ、そこから来る自己評価の低さと、だからこそチャレンジをしていけない、へっぴり腰の自分であったこと。
この、「自己認識」の下手さや、自己への正当でない評価は、やはりそれが起こす大きな問題を人生に引き込んでいたこと。
これはどちらかというとプライベートエリアで起きてきたことではなく、社会生活とも関わる出来事。
なので、もう一声お伝えすると。
簡単に言えば、仕事に関する切り替えが下手であり、もうすでにできていることの認識をもっとすればいいのにしていなくて、そのせいで色々なことが遅れていたことに気づいたということ。
できているのに「まだ完成度が低い」とか。
「その効果はもっと検証しなくてはならない」とかね。
だから、それは一種の恐れも作用して、同じ場所で延々と同じことを繰り返ししようとしていたことにも気づいた。
もう、変わらなくてはならない。
同じ場所にはもういられないのだ。
私自身がブログで既に書いたことに、自分自身がスタックしてとらわれそうになっていたことにも、重ねて気づいてしまったのだ。
変わろうとしていなかった自分にも。
誰かに何かを変えてもらいたかった自分自身にも、気づかざるを得ない。
だからこそ、私はまた、変わることを選べなかった自分を今度こそは捨てて、本当に前に進みます。
進む勇気と、そのための道具を得た今。
それは、できます。
だからこそ、「全肯定の時代だ」と書いたそばから言うけど、私はまだまだ変わっていきたい。
なぜなら、変わり続けたいのが私だから。
私の本質は「変化」でしかなく、変わり続けていきたい魂が私自身。
だから、変わる欲を持ち続ける私自身を許していこう。
愛していこうと思う。
そして、変わることは本当に楽しい。
まだまだ、新しい景色を見ていきたいから。
それだけのこと。
自分を全肯定できるようになった今、私にもたらされてくるのは、最大の自己変容としての、さらなる変化です。
だからこそ、それが地球のアセンションと呼応していき、私はまだまだ変わる。
変わらざるを得ません。
ぜひ、皆様の期待に応えられるか否かは置いておいて、これからも変わっていこうと思います。
それでは、本当に私的な、私のプライベートエリアで主に起きた変革の話、ここまでご静聴ありがとうございました。
また引き続き、セッション等のご報告も含めてブログから発信を行っていきますね。
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
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