2021年5月11日

被害者意識で生きてきたこと、その原因は自分で自分のために最善を選べていなかったこと

 

 

Happy Mother’s Day!

 

 

皆様におかれましては、どのように過ごされたでしょうか。

 

 

私は母や家族と共に、ビバリーヒルズはロデオドライブに繰り出しました。

 

 

ここ、アメリカではやはり母の日も特別なイベントの一つらしく、とても街は賑わっていて、ナイスレストランは予約でいっぱい。

 

 

出遅れた私たちは、レストランで食事をするのは諦め、家でケータリングを取ってワインをしこたま飲みながら語り合った。

 

 

そこで出てきた話は、やはり先祖の話でした。

 

 

これまで私はあまり家系のことに興味がなかったと、たびたびブログでも書いてきました。

 

 

でも、本当に不思議なことに先祖供養を行えば行うほど、先祖に興味が出てくると同時に畏敬の念が芽生え、また生きている叔父叔母や母など親族への感謝が溢れてくる。

 

 

溢れてくるだけでなく、いつの間にか家族関係がとても良くなってきていることに気づきますし、親族同士の騙り合いや足の引っ張り合いなどまったくなく、お互いをサポートし合う関係性に変わってきていることにも気づく。

 

 

ありがたいことです。

 

 

しかし、本日の話題は先祖供養についてではなく、先日行った『呪術解除エキスパート』について。

 

 

まだ、呪いの大元ともなる、解除途中の白い紙は枕元にありますが、すでにいくつかの呪術は解けてきていると感じる。

 

 

なぜなら、はっきりとわかってきたことがあるから。

 

 

そのうちの一つは、私って何てこれまで苦労グセがあったんだろうか、ということ。

 

 

またもう一つは、何も考えずによくここまで感覚や感情だけでこれたもんだ、ということの二つです。

 

 

それぞれ、簡単にシェアすると。

 

 

まずその一について。

 

 

苦労グセ。

 

 

あるいは、大変好き。

 

 

大変なことが好き、という意味で言っています。

 

 

一人で何でもかんでもやろうとするところを始め、何もかも我慢したり、痩せ我慢も含めて、難しい方、大変なこと、危険なものにばかり吸い寄せられるようにして、そしてそんな自分をむしろ誇っていたことに、突然気付いた。

 

 

気づいた瞬間、すでに呪術が外れかけていますから、突然私は

 

 

「ロサンゼルスで友達を作ろう。そして頼ろう」

 

 

と思った。

 

 

さらには、

 

 

「これ以上、辛く寂しくならず、できるだけ困らないためには、何をどうしたらいいんだろうか?」

 

 

と考え始めた。

 

 

それは、これまでまったくなかった考えだったと気づいた。

 

 

これまでは、

 

 

「不安、怖い、困るだろう、でもやらなきゃいけない、仕方がない、頑張ろう」

 

 

という感じ方しかなくて、大変なことを回避するための行動を取るつもりがなかった。

 

 

対策すら立てず、ただ憂鬱になるか、自分を奮い立たせるかのどちらかしか行っていなかった。

 

 

ことにも気づいたのです。

 

 

青天の霹靂とはこのことか。

 

 

 

気づいたら突然、

 

 

あれもこれも大変、しかし、頑張ってやり切らなくてはと、自分を奮い立たせていたさまざまなことに関して

 

 

「やりたくない」

 

 

とハッキリ思えた。

 

 

思えた以上、やめていかないといけない。

 

 

やめていく流れには、やがてなっていくでしょう。

 

 

しかし、完全にやめられるようになるためには、現実的なあれやこれやを調整していかないといけなくて。

 

 

それはそこそこ大変かもしれませんが、その先にこそ、やりたくないことをやらないで済む世界は広がっていきます。

 

 

こういう風にして、人を頼ることを「苦手」「それをしない自分を誇る」という自分でなくなっていった先にあるのは、生きやすくて幸せ度が高い現実に違いありませんから。

 

 

 

気づきその2としては、とても単純な話、これまで私は計算高い人がとても嫌いでした。

 

 

狡猾で、計算ばかりしていて、自分の得のことばかり考えているような人です。

 

 

それだからこそ、「自分は決して計算をしないぞ」と決めて生きていた。

 

 

ということに、今頃気づいた。

 

 

これもまた、青天の霹靂レベルの気づきでした。

 

 

計算をしないということは、ナチュラルで良いことのように感じられる一方で、無計画です。

 

 

どこに辿り着くかもわからないまま、ただ帆を張った船で海に乗り出す時、オールもなければ舵もなく、エンジンすら搭載していない船は、ただ風の向くまま気の向くまま。

 

 

運気の流れによって、良くなったり悪くなったりするだけで、そのようにしている以上、自分の行きたい方向には行けず、何かを構築し続けることも弱くなり、結論、波にたゆたうようにして人生は何かに翻弄され続ける。

 

 

はたと気づいたのは、自分のために、自分が生きたい人生を送るために、さまざまなことを考えて工夫を凝らし、それを取り入れて生きることはぜんぜん悪いことではないということ。

 

 

むしろ当たり前であること。

 

 

なぜそれにすら気がつかず、茫洋と、感性と感情と感覚だけで生きてこれたのか。

 

 

端的に言って、高次元の存在感たちからのパワーサポートがあったからに他なりませんが。

 

 

しかし、ガイドたちは常に言っていた。

 

 

「自分で考えなさい。決めなさい。私たちの言葉はサポート的に聞く程度にしなさい」と。

 

 

そして、私がガイドたちに頼りすぎると、いつの間にか彼らはどこかに消え失せたようになり、「サポートをしないサポート」を始めた。

 

 

それでも私はどうしたらいいかわからないとき、周りに照準を合わせ続け、あるいは「一般的には」とか「普通は」などと選ぶ基準を外に求め続けた。

 

 

これがどれだけバカバカしいことであったのかは、私の人生を見れば一目瞭然で。

 

 

私は常に被害者意識のど真ん中にいて、やらされている感、誰かの下敷きにさせられている感が消えなかった。

 

 

が、その感覚の大元こそ

 

 

「自分で決めていない」

 

 

ことにあった。

 

 

「誰かのため、コミュニティのため、世界や世間の基準に従って」行動を決め続けた結果は、どこか不満足な世界があり続け、それを我慢することで自分を偉いと思い込み、しかし不満が溜まり常に被害者意識の元にいた。

 

 

今、ハッキリとわかるのは、これはやはり、一つの呪術的、呪い的な側面から起きてきていたこと。

 

 

そして、これがもどれだけ根深かったのも、よくわかった。

 

 

なぜなら、夢が相変わらず変である。

 

 

変というよりは、言葉にならないようなかすかなたくさんの「想い」の集合体が、たくさんたくさん地底から湧き出てくるみたいな、そんな説明不能の夢を見続けている。

 

 

たくさんの、私の中に押し込められていたこれらの「想い」こそ、外に出たすぎて、そして私はさまざまに混乱してあれをやったりこれをやったりし、またやるべきことをやらないでほっ散らかしておいたりした。

 

 

すべての、私の世界のコンフューズの元は、これらの呪術によってもたらされていたのだと、気づいたのです。

 

 

気づいた以上、変われる。

 

 

すでにもう、変わっていると言えなくありません。

 

 

ですから、またこのセッションの感想を皆にお伝えしながらも、変化の過程をシェアしていきつつ、皆にも促していきたいと思っています。

 

 

まだ、変化の途中なので。

 

 

でも、また大きく変われる気がしています。

 

 

この変化は、とてつもなく大きい予感がしていますが、まだ、変わらないとわからないことの方が多いみたいでもあります。

 

 

ぜひ、今回受けてくださった方々も、変化や気づきに敏感になってみてください。

 

 

また書きます。

 

 

本日は最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 

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